昭和五十六年五月十七日 朝の御理解


御理解第三十四節「此所へ参っても、神の言うとおりにする者は少ない。みな、帰ってから自分のよいようにするので、おかげはなし。神の言うことは道に落としてしまい、わが勝手にして、神を恨むような者がある。神の一言は千両の金にもかえられぬ。ありがたく受けて帰れば、みやげは船にも車にも積めぬほどの神徳がある。心の内を改めることが第一なり。神に一心とは迷いのないことぞ。」


 昨日は大分支部の御大祭が恒例のお祭りです。本当にいつもの事ながら、華やかにしかも盛大に奉仕させて頂きました。お祭りの後のお説教を私が賜りましたが、昨日朝の奉仕をしておる時に伊万里の竹内先生から電話があった 
 というのは、昨日の言葉に昨夜お食事に、ピースご飯が出来ておった。ところが、翌朝、今朝方、昨日の言葉に今朝それを又頂こうとした一同の者が驚きましたが、そのピースご飯が何とお赤飯に変わっておるのでびっくりしましたという事でした。
 どういう御神意、どういう御神慮の事であろうかと。私はお道の信心はね、昨日その事を聞いて頂いたんですけれども、御神意を体し御神意が分かってその御神意に添い奉る生き方をするから氏子信心しておかげを受けてくれよとおっしゃるおかげを受けられるんです。例えば病気を治して下さい、ちょっとこんな問題がおかげ頂きますようにというようなおかげならば、御神意を体しなくても、御神意を分からなくても又、それを実行しなくてもおかげを受けておるでしょうが。
 それこそさまざまなおかげを頂いとりますけれども、御神意を分からせてもらおうと私もそう思うたから、まあ云うならば人徳、学徳身に備えられた云うなら竹内先生です。それがそんな迷信的な感じのする事をお伺いする事じゃない、とても不思議と云わずにはおれないそういう働きをです、があっておる何かそこに神様の働きを受けておるからその御神意が分かりたい。御神意に添い奉る生き方がしたいというのが私は竹内先生じきじきの云わばお伺いであったと思うんです。その事だけのお伺いがありました。又お届けがございました。
 昨日そのお祭りが終わって下がらせて頂いておりましたら、久留米の佐田さんがまあ特別なお届けがあるというふうにして見えられました。
 「実は私は親先生、今日お説教頂いとって伊万里の方のピースご飯が赤飯になったという話を聞いて私自身が実はびっくりしました。」というお届けであった。
 というのは、あちらも昨日、昨日の言葉に昨日ですよね、だから一昨日でしょう。丁度娘の富美恵さんがまああるきに見えておった。それでピースご飯なっと炊こうというてピースご飯炊かせて頂いたのが全く赤飯に変わってしまっとった。それをまあ云うならば、佐田さんの長女が伊万里の竹内先生の所に嫁っとります。それから妹さんの方が安武先生の奥さんになっとります。その娘たちが行っておる所と自分の所とちょっと富美恵さんちょっとこのご飯を見てご覧と、どげん考えたっちゃ不思議ばい。これは佐田さんのはなし。 それであんまりの事だけれどもそのままお届けもせんでおったけれども、伊万里の方から電話かかってきたというて、しかもそういうその娘たち二人をやっておる伊万里とその自分の家でそういうまあ奇跡というか不思議というかそういう働きが起こっておる、まあ私は奇跡とか不思議な事が起こっているという事じゃないです。
 そこに御神慮があろうと、それを知ろうとする心なんですね。皆問題はね、おかげはね云うならば御神意は分からなくても、御神意を悟らなくても、又それを実行しなくてもおかげを受けておるでしょう。日々沢山の人がここで。
 けども教祖金光大神様が願っておられる事は氏子信心しておかげを受けてくれよである。信心しておかげを受けてくれよである。信心しておかげを、いわゆるお徳を受けてくれよ。あの世にも持って行け、この世にも残しておけるというようなおかげを受けてくれよである。そういう云うならば、御教えをです、云うならば頂いて帰っても途中で道に落としてしもうては、だから神様に喜んで頂くようなおかげにはならんという事が分かるでしょう。 私共はそりゃ長年そういう日々で誠に相済まん事であったと思いますけれども、私が今日こうやっておかげを頂いてまいりましたのは、御神意を悟らせて貰い御神意をいよいよ大切にさせてもらい、今日のおかげがあります。
 例えばここに成り行きを大切にするというような事は、成り行きそのものが神様のお心なのである。神様の思いなのである。だからそれを頂いてきたのですから、やっぱり私がおかげを頂く筈だという事にあるでしょうが。しかも頂くというたら徹底して頂くという頂き方でなからねば、頂いたり頂かなかったりではいけんのです。
 今日の御理解はそこん所をね有り難く頂いて帰ればおかげはそれこそ船にも車にも積めぬ程の神徳があると、それを頂いて帰らない。それは私共が日々です、どういう些細な事の中にでも御神意がある御神慮があるのであるから、それをかしこみかしこんで受けるという姿勢をもって日々過ごさなけりゃいけない。それを云うならば有り難く尊い尊びかしこんで頂くという事になります事がいかに私共が神様が願うておられる、金光大神が願うておられるおかげに連なるかという事が分かります。
 昨日私は今、古川があのように入院、病院に入院しております。最近病状が変わってきた。というのは、腎臓が悪いという事が分かってきた。そこでもう食事というか、それもまあ食事とも言えないようなその薄いお粥さんのようなものを頂いておったそうですけれども、腎臓という事になったらもう一遍に食事が変わった。栄養のつく物をといったようなふうにごろっと変わったという事を家内から聞きまして、その事を神様にお願いして頂いとりましたら、古川がね、あの小さいナイフ、ナイフじゃないスプーンですかね、果物を頂く時のこうさして頂くスプーン、西瓜を小さく切ってあるそれを刺してこんなふうにして(縦に刺してあるところ)持っている所、こうせにゃあけりゃ(横に刺す)下へ、折角刺したのが下へ落ちますよね。それを口に持っていくのじゃなくて、こんなに刺してあらそげなこつしよると刺しとるばってんすとっと落ちてしまうがと思うようなところを頂いたから、ははあ昔から、昔からというがあのう、腎臓には大変西瓜がよいか何かちいう事を聞いておりますが、はあこりゃ西瓜を食べさせるという事じゃろかと思うておったら、神様から頂く事がね、特効薬という事を頂いたんですね。これは私は北京に居る時分に、大変病気をしました。そして後に黄疸が出て大変困った時に或る方が、もうそれこそもう大変な苦労をして、あのしじみを少しばかり持って来て下さった。これは黄疸のまあ特効薬と昔から言われておるから頂いて下さいと言うて、それをまあおつゆにして頂いておかげを頂いた事がありますがね。やっぱその病気にもこれは特効薬、特別にその病気にだけ効くというあれがやっぱあるわけですね。腎臓には西瓜が特効薬。ははあこれはいよいよ食べさせにゃいかんじゃろうかと思いよったら又御理解に頂くんですよ。
 西瓜という事は合楽では修行と言われております。云うならば西瓜とは水火の行。云うならば、火や水の行にも匹敵するような行という事です。水火の行もいといませんとこういうでしょう。火や水の行でもいといませんと。水火の行。そこでそりゃ大変な苦しい事であろうと思いますよね。床にその長うなって寝とるばっかりですから、けどもそれを水火と思い、それを修行と思うて頂いたら特効薬なんだ。もうこれが一番効くわけ。西瓜を食べるという事じゃない。その事自体苦しかろう、水火の行にも匹敵するような行でもあろうけれども、それを苦しゅうございますと、けれども有り難く修行として頂きますという心あらばであります。
 それを修行として頂いたら特効薬。どういう薬でも適わん程しに云うならおかげが頂かれるという意味だという事を頂いてです、皆さんがおかげを頂きたいおかげを頂きたい、云うならば、なら修行そのものをいよいよああたがお願いをしておるそのおかげの特効薬と思うて有り難う、どうしてこげな難儀が続くじゃろうかと思うたら修行にゃならん。
 それこそ、宝を今日私新聞が来とりました。ここに置いてありましたから昨日出来てきたんでしょう。これはまああのうそれによくは分かりませんけれど、写真が載ってますが、あのう「親先生はお道の宝」とこう書いちゃる。大きな活字でそこだけは、だから読めます。まあどういう事書いてあるか知れませんけれども、もう兎角私共の上に起きてくるさまざまな、信心がないなら難儀でもあろう、いやな事であろう迷惑な事であろうけれども、それを修行と頂けばおかげの頂ける特効薬です。修行で受ければです。水火の行として受ければです。水火の行にも匹敵するような事があります。本当にこれが火の行じゃろうか水の行じゃろうかと言うような事もあるけれども、それを神様修行として頂きますという心あらば、それが特効薬という事になる程しの御教えなのですから、それをなら御神意と分からせてもろうて、頂かせて頂く。だから工夫であり又は信心のいよいよ稽古である。 確かに世の中に、この世には苦労というものはない。あるものは神愛けだというふうに悟れた時に、云うなら一切が神愛として受けれるようなおかげ、日々の御教えも云うなら親先生が説いて下さる所の総てが御神意である御神慮である。それを誰にでも分かるように合楽理念にまとめたり、日々の御理解にまとめて説いて頂いとるんだというのですから、それを頂いて帰るとい事が皆さんの願いの特効薬という事になるのじゃないでしょうかね。  どうぞ。